3 エクリチュールとライティング・エンジン
本章には何が書かれているのか?
ライティング・エンジンはエクリチュールを技法の問題に還元する試み
『作家の仕事部屋』のJ・M・G・クレジオ
いくつかの引用
新しい書物は、物事の新しいビジョンに対応している
重要なのは(こまごまとしたノートではなく)説明しがたい感情
プランはあるがそれは意識されない領域にあり、それを発見していく
エイジェンシーとしてのエクリチュール(手書きのエクリチュール)
何か知らないことを感じ、それを知るために書く
思考の過程であって、文字はその痕跡
すでに知っていること、すでに確立したことを表現する作業ではない
rashita.iconα表現、β表現という区別を設けてもいい
手書きのエクリチュールの錯覚
透明な言語であるかのような
手書きのエクリチュールへの執着は一見すると失われた「純粋な」エクリチュールへのノスタルジーなのだが、実際はタイプライターのエクリチュールにおいてその再創造は行われた
T・S・エリオット
分割されたテキストを再統合することで詩を試みた
音声中心主義
タイプという記号の持つ物質性を拒否し、活字かされたテキストの記号体系に先行し、それを支配する超越的な意味の存在と、それに裏打ちされたエクリチュールへのノスタルジー
手書きのエクリチュールが与えてくれるノスタルジー
書くという作業で自分が知ろうとする対象世界の分析不可能性を認識しながらも(思い知らされながら)、その世界との断絶を限りなく零度にしていく体験をする
ちなみに、この辺むっちゃ難しいですrashita.icon
エクリチュールと超越的な意味が透明に結び付いていた時代へのノスタルジーではなく、「常に逸れる=逃避する何か」へのノスタルジー
時間と空間を固定させた認識の体系、あるいは形而上学、あるいはロゴス中心中心主義から常に逃れ続ける。
デリダのエクリチュール論では、書き言葉(一般的な意味でのエクリチュール)と話し言葉(パロール)が対比される
デリダが批判するエクリチュールはアルファベットであり、アルファベットは表音文字であり、音を表すものであるのだから、音が先にあり言葉がその後にある。つまり、パロールの代理という扱いになる。
しかし、エクリチュールの本質は、アルファベットのような表音文字組織ではない。
また、パロールは瞬間に消えてしまうような記号に頼った不完全なエクリチュールに過ぎないとデリダは述べた
「パロールはエクリチュールである」のだ
ここも難しいので整理してみるrashita.icon
パロールは西洋思想の中心にあり、それが絶対的なもの・超越的なものとして(イデアのようなものとして)存在していた
しかし、デリダに言わせればパロールはそんなに絶対的なものではない。なにせ話された言葉は次の瞬間には消えてしまうのだから。
ここがデリダらしい議論の転換。パロールとエクリチュールの対比があり、エクリチュールが下位だという観点を、いやパロールもエクリチュールのようなものだと対立構造を不安定にしている。脱構築的な手腕が感じられる。 漢字の特徴は、第一義的には意味と概念の連鎖であり、しかも、意味は、ここでは、大抵の場合、鮮烈にイマージュ化されて現れる。そしてイマージュ化された図形的意味のまわりには、濃密な情感性が漂う。この様なエクリチュールは決してパロールの代用物ではありえない。 イマージュは、アンリ・ベルクソンが用い、その後ドゥルーズなども「思考のイマージュ」といった形で使っている 著者に依れば手書きのエクリチュールにも同じことが言える。
これは見知らぬ世界を旅して、その光景をデッサンとして記し、一枚の完成した明確な構成を持った物語へと変形してしまうときには失われてしまうその場所のイマージュを包み込んだ濃厚なエクリチュールであり、エクリチュール以前の体験の回復を可能と思わせてくれるノスタルジーに満ちているのである。
rashita.iconさあ、難しいですね。
単純に捉えると、ある場所の記憶をデッサンし、物語へと「変形」してしまうことで失われてしまうイメージがあり、手書きのエクリチュールは、そうしたイメージを包み込んだ濃厚なものである、という解釈ですが、具体的にそれがどういうことなのかは、現時点では不明なので、おいおい確認しましょう。
ダイレクト・ライティング・プロセス
知っていることを書く場合
主題を決めたフリーライティングを行い(ブレーン・ストーミング)、その結果を整理して文章に仕上げる
整理作業では、誰に何を読ませるのかを明確に意識し、何をいいたいのかを整理し、うまい表現を工夫し、議論のアウトラインを構成し、足りないところは足し、余計なところは削り、本文を仕上げ、結論を念頭において始まりを書く。さらに、声を出して文章を読み、無駄なところは切除し、文法上の誤りを直す
主題を決めたフリー・ライティング→出てきたものに論理的な枠組みを与える
強引に考えていることを作りだし、それをアウトラインの形で視覚化(空間化)する
エクリチュールと思考の間にある複雑な関係を、アウトラインというダイアグラムで図表にしてしまう
この方法は、古典主義時代の知識の在り方(by ミシェル・フーコー)
rashita.iconそれがどういうものなのかは現時点では不明瞭
自由に書いてから、後で整えるというやり方は、最初から「理論的」(形而上学的に)考える作業に較べるとそれほど難しくない
身体にしみついた思考、ダイヤグラム化する形而上学の持つ神秘性を、カット・アンド・ペーストという技法に還元する
タイプされた原稿は、物質性が明らかで、神秘性から逃れている
タイプライター的思考はモダンな思考をもたらした
モダンとは、古典主義的なものへの挑戦の結果として生まれたもの、くらいの意味合い
単に脱神秘化しただけでなく、古典主義的知識の「民主化」ももたらした
誰でも「よい文章=エクリチュール」(分かりやすい論理的なコミュニケーションのメディアとなる文章)が書けるようになる
ある種の教養がなくても、技法だけでそれがなせる
多くの人が可能であり、それが「民主化」という言葉で示されている
タイプライターによって脱神秘化された「教養あるエクリチュール」は二つの方法で無視できた
ハイデガー的なノスタルジー
つまり、タイプライター以前のエクリチュールこそが本物なのだという批判
上品ぶった偽物として扱う
人間性が疎外されたものが「教養あるエクリチュール」である
マルクス主義的
無視するのではなく、積極的にそうした「教養あるエクリチュール」を学ぼうとする人もいた
カントが定式化したように「もの」と「概念」の対応関係は理性が保証してくれるとする考えは、ブルジョワ社会を支える理念でもあった。この場合は文化ヘゲモニーが成立する。 rashita.icon文章の意味はわかるが、前後の対応関係がイマイチつかめない
後半は、文化的な権力の勾配が生まれるということだろう。
「教養あるエクリチュール」を価値あるものとして学ぼうとするかぎり、「教養あるエクリチュール」をもともと持っている階級はすごいんだ、という枠組みから抜け出ることができない
前半は?
「もの」と「概念」がつながってくれるなら、脱神秘化された、つまり物質性があらわになった「もの」を獲得することで、それが「概念」→イデア的なものにきちんとつながってくれるよ、という話だろうか。
ちょっと意味が取りづらい
別のアプローチを取る存在もある
エクリチュールの実態を見極めた上で、その政治的な枠組みを逃れようとする
エクリチュールの脱構築
テリー・イーグルトン
ヘンリー・ルイス・ゲイス
ガヤトリ・スピヴァク
以上のような書き手の文章は難解だが、ある種の反抗として捉えられる
イデアを感じさせない
指示対象を失ったシニフィアン
しかし、意味はある
テキストはテキスト
「テキスト外というものは存在しない」デリダ
古典的な論理的枠組みをこえるテキストを生産する人間の活動が「書く」
エクリチュールとして表現されたものはテキストである限り意味を持つ。まったく無意味なものはテキストに存在しない。ただその意味が超越的な一義的意味でない
オープンエンディッド・ライティング・プロセス
未知の今まで考えたようなこともなかったような世界に到達するための活動
大航海(VOYAGE)にたとえて、そこにあるエージェンシーを分析する
どこかに向かって旅立ち、陸地を見つけたら上陸方法(LANDING)を考える
プロセスの中身の具体的な検討は本文参照のこと
抽出したモデルが以下
VOYAGE
RESEARCH
FRIST TIME
FREE WRITING
IMMERSION
PERSPECTIVE
VISION
ROAD MAP
LANDING
FIRST DRAFT
FOCUSED GESTATION
OUTLINE
REVISION
EDITTING
FINAL WRITING
ポイントはVISIONの部分
この作業は言葉の海へ出かけていく動きと、自分の動きになんらかの跡付けを試みる動きである。この作業を気長に繰り返していくと、何が書きたいかのヴィジョンが見えてくる(VISION)、だが、ここで明確なアウトラインや展望を作る必要はない(ROAD MAP、つまりどの方向に向かおうとしているかのデッサンでよい)
こうした「書き方」=ライティング・エンジンがあれば、ロゴス的な意味に汚染されたり、論理性につながれることはない
しかし、最終的にはそれは「一枚の完成した明確な構成をもった物語=アウトライン」へと変形される
テリー・イーグルトンは、デコンストラクション(脱構築)とブルジョワ・リベラリズムを比較して同一性を指摘している
理論・方法・体系を控え目に否定し、支配的・唯一無二の外示的指示内容を有するものへの反発。複数性と異質性の特権化というデコンストラクションの考え方がアングロ・サクソン系のアカデミーに浸透したのは、そうした思考が伝統的なブルジョワ・リベラリズムと同じだから
道中いろいろあっても、最後の最後には「よみやすい文章」に整えられることになる
ライティング・エンジンには移行と過程、横滑りと移動のエクリチュールが新たな形を持つにいたる世界を再統合する契機も確かに含まれているのだ。
他の人に共有したい情報や疑問などがあれば以下に書いてくださいrashita.icon
TsutomuZ.icon EDITTING は、EDITING の誤植か?
TsutomuZ.icon 「自分の動きになんらかの跡付を試みる動き」p.51 と何かわからなかった。
あと‐づ・ける【跡付】
①物事の変化の跡をたどり、確かめる。追跡調査をする。
では、自分の動きとはなんだろうか?
文章=自分のエクリチュールの中から探し出す PERSPECTIVE ことだろうか?